日々の吹き溜まり

日常の累積記録とメモ程度の読書記録

文章を書き綴ること

文章は才能だ、という記事を見かけた。

 

音楽の才能は遺伝が9割。スポーツの8割を上回る結果に @netgeek_0915さんから http://netgeek.biz/archives/99094

 

感情や事実を文章に変換できること、言葉で表すことが出来ること。

自分もこうやって文字を書き綴っていると、センスというものが存在するのだなぁと痛感する。

 

語彙力は確かに学べば身につくけど、その言葉と事実や感情を結び付けたり、繋ぎ合わせていく作業は、センスとしか言いようがない。

活字じゃなくても、おしゃべりも才能で、センスでしかない。

活字や会話での表現で、零れ落ちていく何かを感じながら、言葉というツールで表現していく。

時には大袈裟で大胆な言葉を使い、控えめな表現を選択したり、たくさんの選択の余地がある。

それを他人が快い、と感じる文章を書けることが、才能なのだと思う。

 

伝える、というのは、並大抵のことではない。

 

自分が感じていることを、即座に口語化できる人は、それだけ何か指針が決まっているような気がする。

 

だけど、文章化すること自体は、やはり経験がものをいう作業だ。

いろんな出来事や感情を文章化させて、その文章が本当に表現として合っているかを検証し続ける。

だけど、そのことを怠って、自分が好きな表現や結論を書くために、事実を歪曲して並べたてる人がいる。

これが、メディアに横行していて、自分の仮説を事実であるかのように文章を書き綴っていく。

それだって、責められることじゃない、と私は思っている。

 

文章化させることは難しいのだ。

ましてや、たくさんの人に読んでもらう文章なんて、大変に決まっている。

それを売るという即物的な流れに乗せれば、表現が捻じ曲がっていくのは仕方ないことだ。

 

 

玄人の文章やおしゃべりを、私たちは無料で楽しむことが出来る時代になった。

テレビや新聞の無料アップロードは横行しているし、素人でも上手な人たちがたくさんネットで漂っている。

観る人間の目が肥えていけば、下手な人間の表現を忍耐強く聞く人は少なくなっていくだろう。

わかりにくい話を、わかりやすくしろ、と、消費者目線で語られる。

わかろうとして、寄り添ってくれる人が減っていく。

 

 

考えて、なんでも文章化できることがいい、とは思わない。

起こっている出来事を脳内で整理して言葉にして、事実を分析して、現状を把握して。

僕は絶望することの方が多い。

 

それなら、何も知らない方がいい。

明日の朝ごはんのことでも考えていた方がいい。

 

どんなに物事を考えても、正しいとされる行為を見出しても、僕らは、この今、生きている世界の採点基準を知らない。

それなのに、個人が勝手に考えた正義を他人から叩きつけられる。

それが正しいと証明はできない。

 

社会に秩序をもたらす、トラブルを迅速に対処していく、最小限にとどめていくことだけが、最も有用ということしかわからない。

 

 

物事を文章化させることは、事実に絶望していくことだと、僕は思ってる。

 

だから、夏目漱石芥川龍之介川端康成も自殺したんじゃないか。

どれだけ書いても、伝わらないし、不安もぬぐえずに、絶望ばかりが増えていく。

そんな能力、生きていく上では邪魔だ。

 

もちろん、文章を書くことで救われる人がいることだって事実だ。

それで食べていく人もいるし、趣味としての生きがい、ストレスの発散になっている人もいるだろう。

事実なんか分析しないで、理想や思想だけを書き綴る人だっている。

 

 

僕は文章を書くのが好きだ。

だけど、文章に関する才能がないことは痛感している。

書くのも好きで、才能がある人が羨ましい。

 

僕が他人に褒められるのは、演劇の方だった。

でも、僕は演劇がそこまで好きじゃなかった。

演劇は、金がかかるし、好きじゃないことのために、生活を犠牲に出来なかった。

ただ、私の演じている芝居を観たいとか、もう一度一緒に舞台に立ちたい、という声はかかったりする。

そんなこと言われても、それをクリアするためのハードルをクリアする気が起こらない。

 

文章に反応がある方が何倍も嬉しい。

でも、演劇では容易く表現できることを、文章で表現することは難しいというのも、感じている。

これが逆だったらよかったのに。

演劇の才能なんかより、文章の才能が欲しかった。