日々の吹き溜まり

日常の累積記録とメモ程度の読書記録

呪いを断つことができない

ツイッターを眺めていると、嫉妬や怒り、憎しみ、嫌悪から生じる罵倒が後を絶たない。

私は、これらの感情を呪いと呼んでいる。

憎しみは憎しみを呼び、螺旋を描き、延々と続いていく。終わりが見えない。

 

私も憎しみに囚われている。

在日や中国なんていう抽象的なものではなく、具体的だ。

私はずっと父親を殺したいほど憎んでいる。

離れて十年余りが過ぎた今でも、彼の訃報を心待ちにしている。

先日はついに彼が死んだ報せを聞く夢を見たのだが、目覚めて夢だと知って、心が乱れて泣きじゃくった。

父親がいなくなった世界を疑似的にでも体験して、父親が生きている世界で息をしていることが耐え難い苦痛だった。

 

 

憎しみは何も生まない。

そんなことは分かっていても、憎まずにはいられない。

私にとって、父親は不幸の原点なのだ。

父親さえいなければ、私は幸せだった、という想いが、私を憎しみに駆り立てる。

最初からいないことに出来ないならば、せめて死んでくれ、というのが、私の願いだ。

 

なんて暗い。なんて最低で、下劣で、暗澹たる願いなのか。

一度、祖父母が、父を殺したい、死んでくれと言った時にはゾッとした。

私の側に来てほしくなかった。

 

 

憎しみが気になるのは、自分が充実した毎日を送ってないからだ。

好きなことを追いかけられるのなら、憎しみなんて追いかけてないだろう。

好きなことができない、好きなことに没頭できない、その憂さ晴らしが憎しみをまき散らすことになる。

それが幼稚な行為だと、自制できるようになるためには、自分自身がその行為を恥ずかしく思うことでしかない。

匿名ツールがネット上に溢れ、顔が無くなる、自分が無くなることに陶酔するようになってしまったら終わりだ、と、私は思う。

何故なら、私は有神論者で、死後の世界を信じている。

心をコントロールする、精神を正常に保っていくことは人間の使命であると考えている。

死後の世界で裁かれないために、私は憎しみに溺れないように、憎しみを眺めつづけている。

 

悲しみや怒り、憎しみに囚われてしまうことは仕方ないと思っている。

それが感情、心の移ろいだからだ。

ただ、自分でその行為に浸りすぎてはいけない。戻ってこれなくなる。

自分で、憎しみ過ぎない、怒りすぎない、コントロールすること、だ。

気分を切り替えられるようになることは鈍化ではない、成長だ。

悲しみ続ける、怒り続ける、憎しみ続ける、それらを避けるために、なんとか足掻きつづけるしかない。

私は悲しむときは思いっきり悲しむ、怒る時は思いっきり怒る、憎しみは外に出す。

・・そう、必ず人を巻き込んでしまう。その不利益も、罪悪感も自分で引き受けながら。

憎しみや悲しみを脱する為には、結局、気を置けない誰かの存在が必要になってしまう。

大きすぎる感情を持て余し、その受け皿に周囲を巻き込めず、結果、どうでもいい誰か、ネット上で知らぬ人を巻き込むのだろうか。

それが、ツイッターで可視化される、罵倒やヘイトの数々なのだろうか。

 

誰かに八つ当たりしたなら、せめてリアルは機嫌よく過ごしていてほしい。

でなければ、呪いを受けた人が浮かばれないように思う。

通りすがりに殴られたような失礼な文言を受けた人からすれば、死んでほしいと思われているだろうけれども。

しかし、それは、彼らが匿名に甘んじた行為なのだから、引き受けなければならない呪いだろう。

匿名行為が安全圏だと思っているのなら、それもまたそれだ。

 

 

憎しみを他人にぶつけることは、自分の上手くいかない人生や思い通りにいかないもどかしさに対する八つ当たりでしかない。

しかし、八つ当たりをしないと心が壊れそうなのだ。

罪悪感があるなら、まだ戻れる、八つ当たりなのだと、自分勝手で我儘な行為なのだとわかっている、だから、まだきっと希望はある。

憎しみと共に、私は生き続ける。いつか父親が死ぬ日を、私は待ってる。