日々の吹き溜まり

日常の累積記録とメモ程度の読書記録

白鳥じゃなかった醜いアヒルの子

自分が社会のピースになれる気がしない、という感覚があった。

その感覚は、ある時期を境に、ずっと持っていた。

部活に所属しても、何でも話せる友人がいても、孤独は癒えなかった。

誰とも違う私は白鳥でもないのにアヒルの中で、孤立していた。

 

 

小学校や中学校では、とにかく同じであることを養われる。出る杭は打たれる。

性教育なんて言いながら、同じ教室で、同じ先生から、同じ授業を受けて、小学校なら、同じご飯を食べて、同じ時間を共有していく。

同じものを見ていないと、話が成り立たない。

アイドルが好きな子はアイドルを見て、漫画が好きな子は漫画を読んで、同じ集まりの中で、共通のことを体験して。そうじゃないと、生き残れない。同じ体験を植え込まれていく。

 

母親が離婚して、母子家庭になった。今時、そんな家庭も過去も、普通だ。いくらでもある。シングルマザーの家庭は教室に一人ではないから、同じ人がいるというだけで仲良くなくても淋しさを感じることはなかった。

私は、母が友人を作って、その子供と友達になることで、同じではなくても、一緒にいる優しい子のおかげで、一人ではなかった。だから、いじめの標的にもならずに、いじめの片棒も担ぐことがなく、中学校までを過ごした。

親がいるってことだけで、とにかく社会では、なんとかうまくやっていける。

親がいないことが一番の致命傷だということを、私はまだ知らない。

知らないままでいられたらどれだけよかっただろう。

今思っても、とても幸せだった。あのまま過ごしていれば、と思う。

きな臭くなったのは、中学三年生の頃だ。母親が妊娠した。

そこから、私の人生は転落した。完全に転落だった。

 

 

初めは、母親の妊娠に素直に喜んだ。新しい兄弟、新しい命。

それはどんな物語でも祝われるもので、嬉しいことである、と私は信じて疑わなかった。だから、新しい父親になるかもしれない人が、どんな相手かなんて、想像もしなかった。新しい父親。新しい家族。

母親の離婚も不倫も転居も、私たちに不幸をもたらしたことはなかった。だから、新しいこと、変化を受け入れることに慣れていて、何も考えてなかった。

愚かだった。14歳の私は、母親がもう働かなくていい、幸せになれる、母が幸せになることは私たちの幸福である。これから、もっと幸せになれる、そう思っていた。

だけど、それは不幸の始まりになった。

 

 

新しい父親になる人間は、母より七つも下の若い男だった。

自分も離婚していて子供がいる、子供には寛容だよ、というアピールを私たちに見せた。

だけど、彼は、私たちに馴染めなかった。

「おまえたちはおかしい」「躾がなってない」「母親が育て方を間違っている」

そう言って、母との部屋に引きこもるようになった。

母親が必死で、彼を宥めて、私たちに「自分が悪かった。私があなたたちを放置しすぎたのだ。あなたたちは悪くない。」と泣いて謝るようになった。

そして、弟たちは殴られるようになった。私は女だから殴られなかった。

わけがわからなかった。母親はよくやっていたのに、どうして?と思った。イライラするので、私は新しい父親に嫌味を言うようになった。

「母親を孕ませた」なんて、侮蔑の意味を知らないふりして、吐き捨てたこともあった。男は困惑した表情を浮かべていたけれど、気付かないふりをした。その後、私は母に「私たちは合意だったから、孕ませたなんて言葉は使ってはいけない」と言われて、私はまた、いら立ちを募らせた。

今思えば、いつも毅然として、私たちの神であり続けた母親の弱い部分、女の部分を見るたびに、私の自尊心が傷つけられていたのだ。

絶対的な存在が、絶対的なものでなくなることを、直視し続ける。私は無意識に、それを試さずにはいられなかったのだ。そして、試すたびに絶望していた。

当時は何故、いらいらするのかわからなかった。

あとでわかることだが、この男は、母親にも暴力をふるうようになっていた。

ある日、家に帰ったら、母の美しい顔に青いあざができていた。

「どうしたの?」と聞いたら「転んだの」と笑って答えていた。私は不審に思ったけど、聞くのを止めた。信じることも考えることも放棄した。

よく「どうして、そんな男に引っかかったのか」と女に見る目がないことを責められるけど、わかるはずなんてない。だって、最初は暴力なんて振るわない。笑顔で、にこにこと寛容であることを示すのだ。

騙すことを考えている、いや、自分が正しいと思っている人間は、そう見える。だから、DV男に引っかかることなんて、簡単なのだと思う。

幸せになれると思っていた。だけど、一カ月もすると、荒んだ暗い日々に転落していった。私はずっとイライラしていた。どこに怒りを覚えているのか分からなかった。

母親の再婚相手をいまさら排除することは不可能だった。男は仕事が見つからない、引っ越しがしたいと嘆いた。

 

覚えていることはもう少ない。

つらいかなしい記憶には、鍵がかかってしまうようだ。

とにかく苦しかったことは覚えている。母から、泣きながら殴られたような気もする。それも、あまり、ちゃんと、覚えていない。

 

私たちは夏休みに入って、母方の祖父母のところに預けられていた。

毎年のことだったので慣れていたけど、この年をどう過ごしたのか、ほとんど覚えていない。たぶん、私たちの変化に、祖父母と、一緒に住んでいた叔父も叔母も気付いていて、何かあったら逃げてくるようにと、お金を多く渡された。

 

祖父母の家から、帰って、登校日に学校に行き、その数日後。

母から「家を出ていってほしい」と告げられた。

父親に親権を譲り渡すことにしたから、父親のところに行くように、と。

私と二人の弟は、鞄に物を詰めて、父親のもとに発った。

どうしてこうなってしまったんだろう。母の弱さを私は憎んだ。

だけど、母もどうしようもなかったことを私は知っていた。

身重の母は、その男に縋ることしかできない。私たちを守るために、仕方なく、父親の元に行かせることに、私は薄々感づいていたけれど、それには蓋をした。

そうしなければ、自分の弱さに気付いて、発狂してしまっただろう。

それに、私たちは、母子家庭の割には幼すぎた。自分たちの身に起こっていることの半分も分かってなかった。

この日々を境に、私は居場所を見失い、自己愛を欠損していくことになる。

 

 

母親から父親のところに行き、中三の大事な時期に転校した私は、クラスで浮いた存在だった。

兄弟三人が年子で三学年すべてに転校生が来るという事態は稀で、全校生徒が浮足立つという雰囲気も加担した。

母親に捨てられるようなかたちで転校してきた私たち三人は暗い気分で、学校に馴染めるはずもなかった。まして私など、あと半年しかいない学校に愛着を持とうなどと考えられるはずもなかった。

急激に襲ってくる疎外感に、私は馴染めなかった。事態を把握できるほどの経験がないし、似たような経験がある子もいない。どうやって克服していけばいいのか分からなくて、卒業や受験間近で高揚しているクラスの人たちを、ただ暗い気分で眺めていることしかできなかった。

きっと、馴染めない私に、クラスの子たちはとても気を遣ってくれていたけど、そんな優しさにも気付けないほど、私の気持ちは沈んだままだった。

幸いだったのは、まだ総合選抜が残っていたので、行く学校を自分で決めてもいいし、とにかく受験さえすれば学区で決まっている公立高校に行けるというものだった。

決めなくていい、選択しなくてもいいことが、この時ほど救いだったことはない。

義務的に中学校を卒業し、私は高校生になった。何も解決しないまま。