日々の吹き溜まり

日常の累積記録とメモ程度の読書記録

絶望しながら今日を生きていく

このブログでは政治の話は避けようと思ってたんだけど、さすがに。

 

急造の新党に民進党が実質、吸収ってどういうことなんですか。

意味がわかりません。

 

自分の主義主張をはっきりさせるために、僕は政治を眺めてるので、明らかな政権批判とか明らかな支持政権については、ちょっと距離を置いていたんですけど。

民進党の判断は、自棄すぎませんかね。

 

民進党という党自体に、僕はあまり興味がありませんでしたし、主義主張がぼやけていて、何がしたいのかよくわからないというのが正直なところでした。

 

日本の政治は、戦前日本の名残であり、民主主義の皮を被った封建主義であると思っています。

勝てば官軍、結局、天皇を中心に国家が巡っているという体制自体は変わらないままであるのですから。

天皇が政治から遠のいていたからと言って、ムラ社会という小さな政治ならともかく、国家という政治に興味が薄いですし、上が勝手にやってること、決まったことは仕方ないと従うさまは封建国家としか思えません。

日本は近代国家なんかじゃないのです。先進国という名も、金で買ってるだけで、人が住みやすい国家を作るなんて思想などないのです。

まあ、僕が思っている日本のことなんかどうでもいいんです。

 

これから、社会はどうなっていくんでしょうか。

 

これからどんどん人口も減って、江戸時代に作り上げられた平和で安全な秩序は貧困でボロボロになっていくでしょう。

 

 

日本が経済発展できたのは、勤勉で真面目だったからじゃない。

物を盗まないようにと躾けられた国民、従業員を盗人にしない徹底した管理、そこで安心して仕事に集中できる環境と、増えていく人口による一千万単位の内需による功だったに違いない、と考えています。

 

それを失って、希望という言葉にはもう光がありません。

人口も少なくて、ブラック企業や増る望みのない薄給のまま、僕らは、壊れかけている日本を引き継いで生きていくしかない。

小池さんも安倍さんも、きっと僕らよりは先に死ぬし、政治から退場するでしょう。

そこから、どういう政治家が誕生するんでしょうか。

 

 

 

リセットボタンを押すみたいには、日本はなくならないし、うまくいくはずもないでしょう。

厨二なので、終わりの始まりとでも言っておきましょうか。

泥沼に泥沼を重ねて、終わりだ終わりだという言葉が繰り返されて、船が沈んでいくみたいに、いつ死ぬんだろうと考えながら生きる末期がん患者のように、終わりを眺めながら、ゆっくりと終わっていくんだろうと思います。最悪ですね。

 

いっそ、中国やアメリカになってしまう方が日本は幸せなように思います。

 

金と権力の亡者になり下がった腐った政治と企業に殺されていく同胞の死が哀しくてたまりません。

つらくてかなしくてさみしいと叫んだ人間を、容赦なく叩く同胞の闇にも、うんざりしています。

 

 

いつになったら、まともな政治家が弱者を助けてくれる世の中になるんでしょうか。

それとも、そんな日は来ないんでしょうか。

 

政治は民衆の鏡だと言います。

内輪もめばかりで周囲の影響なんか考えない、自分と小さなコミュニティのことしか考えていない、自分がどうみられるか見当はずれのことばかりしている、まともな論理答弁ができない。その通りだと思います。

 

 

そんなに日本が嫌いなら、日本から出ていけと愛国者の方々は言うでしょうか。

出ていけるなら、とっくに出ていってる。

出ていけないから、少しでも住みやすい世の中を願ってるんだ。

 

 

ヒーローが出てくるか?英雄は出る杭で打たれてしまう。

日本にいるのは魑魅魍魎だけだ。

 

自分の幸せだけのために、足を引っ張る世界に落ちないように、生きていくしかない。

誰も救えないし、救われない世界で、自分の足元の安全確認だけをしながら。

文章を書き綴ること

文章は才能だ、という記事を見かけた。

 

音楽の才能は遺伝が9割。スポーツの8割を上回る結果に @netgeek_0915さんから http://netgeek.biz/archives/99094

 

感情や事実を文章に変換できること、言葉で表すことが出来ること。

自分もこうやって文字を書き綴っていると、センスというものが存在するのだなぁと痛感する。

 

語彙力は確かに学べば身につくけど、その言葉と事実や感情を結び付けたり、繋ぎ合わせていく作業は、センスとしか言いようがない。

活字じゃなくても、おしゃべりも才能で、センスでしかない。

活字や会話での表現で、零れ落ちていく何かを感じながら、言葉というツールで表現していく。

時には大袈裟で大胆な言葉を使い、控えめな表現を選択したり、たくさんの選択の余地がある。

それを他人が快い、と感じる文章を書けることが、才能なのだと思う。

 

伝える、というのは、並大抵のことではない。

 

自分が感じていることを、即座に口語化できる人は、それだけ何か指針が決まっているような気がする。

 

だけど、文章化すること自体は、やはり経験がものをいう作業だ。

いろんな出来事や感情を文章化させて、その文章が本当に表現として合っているかを検証し続ける。

だけど、そのことを怠って、自分が好きな表現や結論を書くために、事実を歪曲して並べたてる人がいる。

これが、メディアに横行していて、自分の仮説を事実であるかのように文章を書き綴っていく。

それだって、責められることじゃない、と私は思っている。

 

文章化させることは難しいのだ。

ましてや、たくさんの人に読んでもらう文章なんて、大変に決まっている。

それを売るという即物的な流れに乗せれば、表現が捻じ曲がっていくのは仕方ないことだ。

 

 

玄人の文章やおしゃべりを、私たちは無料で楽しむことが出来る時代になった。

テレビや新聞の無料アップロードは横行しているし、素人でも上手な人たちがたくさんネットで漂っている。

観る人間の目が肥えていけば、下手な人間の表現を忍耐強く聞く人は少なくなっていくだろう。

わかりにくい話を、わかりやすくしろ、と、消費者目線で語られる。

わかろうとして、寄り添ってくれる人が減っていく。

 

 

考えて、なんでも文章化できることがいい、とは思わない。

起こっている出来事を脳内で整理して言葉にして、事実を分析して、現状を把握して。

僕は絶望することの方が多い。

 

それなら、何も知らない方がいい。

明日の朝ごはんのことでも考えていた方がいい。

 

どんなに物事を考えても、正しいとされる行為を見出しても、僕らは、この今、生きている世界の採点基準を知らない。

それなのに、個人が勝手に考えた正義を他人から叩きつけられる。

それが正しいと証明はできない。

 

社会に秩序をもたらす、トラブルを迅速に対処していく、最小限にとどめていくことだけが、最も有用ということしかわからない。

 

 

物事を文章化させることは、事実に絶望していくことだと、僕は思ってる。

 

だから、夏目漱石芥川龍之介川端康成も自殺したんじゃないか。

どれだけ書いても、伝わらないし、不安もぬぐえずに、絶望ばかりが増えていく。

そんな能力、生きていく上では邪魔だ。

 

もちろん、文章を書くことで救われる人がいることだって事実だ。

それで食べていく人もいるし、趣味としての生きがい、ストレスの発散になっている人もいるだろう。

事実なんか分析しないで、理想や思想だけを書き綴る人だっている。

 

 

僕は文章を書くのが好きだ。

だけど、文章に関する才能がないことは痛感している。

書くのも好きで、才能がある人が羨ましい。

 

僕が他人に褒められるのは、演劇の方だった。

でも、僕は演劇がそこまで好きじゃなかった。

演劇は、金がかかるし、好きじゃないことのために、生活を犠牲に出来なかった。

ただ、私の演じている芝居を観たいとか、もう一度一緒に舞台に立ちたい、という声はかかったりする。

そんなこと言われても、それをクリアするためのハードルをクリアする気が起こらない。

 

文章に反応がある方が何倍も嬉しい。

でも、演劇では容易く表現できることを、文章で表現することは難しいというのも、感じている。

これが逆だったらよかったのに。

演劇の才能なんかより、文章の才能が欲しかった。

本当に怖いのは人間か?

ホラーだとかスプラッタを観る人は口を揃えて言う。

「本当に怖いのは霊でもゾンビでもなく人間だ」と。

 

それを聞くたびに、僕は本当か?と思うのである。

 

このブログを読んだり、ツイッター見たり、リアルでお付き合いしている人は知っていると思うが、僕は有神論者で、死後の世界と霊を信じている。

なので、本当に怖いのは人間などと、思っていないのである。

 

 

冒頭の台詞を唱える人は、見えてる人の話を嘘だと断定できるほど、この世界のことを知っているのか?というのがまず疑問である。

 

この世界のことを完全に何か把握している人間など、私はいないと思っている。

 

どれも少しずつ真実で、それも少しずつ間違っていて、どれを信じるかを、自分で決めるだけの話である。

 

彼らの考えでは、霊もゾンビもいない、もしくは、存在するとしても、人間界に影響を及ぼしていないと考えるのだろう。

 

 

 

 

確かに、人間は嘘を吐くし、人を騙すし、傷つけることもできるし、殺すこともできる。

 

人間は無害ではない。

時と場合によっては有害であることは否めない。

 

では、目に見えないものは、本当に無害なのだろうか。

 

見えない以上、証明することはできない。

 

漫画や映画なんかの、想像の世界の話になってくるが、見えないものが人を操れるとしたらどうだろうか。

 

見えないので認知は不可能だし、自分が操られているという意識もないだろう。

 

病気を引き起こしているのは、目に見えないウイルスや、細胞の劣化だ。

 

これだって、化学が発展したからこそ認知された事案で、昔は目に見えない霊や妖怪の仕業だった。

 

化学的に、霊や妖怪が原因ではないと実証されたが、じゃあ、そのウイルスはどうやって生まれうるのか。

 

目に見えないものが関連していないのか。

 

人間が見えないものに操られない保証もないし、見えないものが病気に本当に関連していないと証明できる人間はいない。

 

証明できるという人は、ただの持論でしかない、それは論理的な証明ではない。

 

 

 

 

悪魔、ないし、それに準じるもの、もしくは神。

 

彼らが、人間にとって無害だと、証明することもできないし、有害だと断じることも出来ない。

 

視えないものは存在を証明できないし、その行動も証明できないからだ。

 

しかし、僕は文明の理知というものを信じている。

 

人間は古来から、人間を超越するものや、死んだ人間が存在することを信じてきた。

 

どの国にも、宗教というのが存在する。

 

これは、視えざるものの存在を証明することにはならないだろうか。

 

死が恐ろしいという理由だけで、神というまったく架空の存在を作り上げるだろうか。

 

それを見たという人間が世界中にいて、また、どの時代にも視えるという人間がいて、まったく不在であるというのは証明できない。

 

ただ、それが神であるという保証もできないだろう。

 

少なくとも、目に見えない、一部の人間が感知できない何かがいる。

 

それは動かしようのない事実ではないだろうか。

 

才能だって、同じようなものだろう。音楽も数学もセンスがない人には理解できないが、わかる人にはわかる。

 

神や霊を視る力も、才能やセンスに左右されるのだろう。

 

だとしたら、無才な人間があれこれ言ったところで、ただの無知だ。

 

数学ができない人間が、数学なんか嘘だ、そんなものないと言ったところで、何の説得力もない。

 

視える人が、視えていて、いるというのだから、そこには何かがいるのだろう。

 

どの宗教も、視えざる何か、人間を超越した何かがいる、と教える。

 

それは神であったり、悪魔であったり、仏であったり、死者であったりする。

 

視える人も、それが何かはわからないのではないだろうか。

 

ただ、視えているというだけで。

 

 

 

本当に怖いのは人間だと信じるなら、それがあなたの宗教だろう。

 

だけど、本当に視えないものが無害だと思うのはやめた方がいい。

 

それを実証することなど不可能だ。

 

 

 

だって、本当に怖いものが人間だと感じているあなたの心が操られているならば。

 

そう思い込むように見えないものに操られているとしたら。

 

それをあなたが証明することなど、できないのだから。